単純知識の時代から

インターネット、いや、Webブラウザという代物がこの世に出てきたとき。それはいまから高々20年ほど前だけれど、それでも地球の裏側の情報が、指先ひとつで手元に引き寄せられることに、私は文字通り、震えるほどの驚きと感動を手にした。

ほどなくして検索エンジンというものがいくつか立ち上がり、世界中で作られるホームページの情報を常に集め続け、探し出せる仕組みが構築され始めた。

Googleが出てきたのはそれから遅れる事約5年ほどだったと思う。より検索精度の高いエンジンができたとして徐々に乗り換え組が出てきた。検索エンジンの競争も激しく、いくつもの検索を中心に据えたプロバイダが破れ、残っているのは数えるほどに過ぎない。

 

ググる」というキーワードが日本では当たり前に使われるように、何かを調べようと思えば、ネットの検索エンジン、それも多くはGoogleにたよるというのはもはや誰もが考え付く当たり前のことになった。

検索エンジンで探し出せない情報はない…とさえ思い込んでいる人までいるくらいで、逆にそっちの方が怖いくらいなんだけど。

 

いや、しかし日常に必要になるであろう当たり前の情報は、ほぼすべてネット検索で手に入ると言っても過言ではない時代に入った。天気、時刻表、道路情報や鉄道情報、ゴシップネタ、レシピ、ネット以前の時代に手に入れようとしたところで、そもそもその情報の存在すらよくわからなかった情報が、今や指先ひとつで手に入る。

公開されている「情報を手に入れることのコスト」を、劇的に下げたといえば聞こえはいい。だが、コストを下げたということは、「そのものが持つ価値をも下げた」ということに他ならない。それまでは、そこに乗っかっている情報の集積価値にも、個別に対価を支払って購入していたものが、その単に集積された情報だけに対する価値が限りなくゼロに近づいたということ。

デジタル化が怖いのはここだ。コストが劇的に下がることで、そのモノが持つ(と信じていた)価値自体も劇的に下がる。

 

単なる知識情報の時代ではなく、それをいかに編集するか、どういう視点から切り取るか、読み切るかという時代がやってきた。そしてそのためにはまず大量に情報を仕入れて、どういう裁き方ができるのか、どういう切り口があるのかを理解したうえで、もっともアピールできる形に編集する力が必要になる。今一番それに長けているのはというと…ひとつは専門家だろう。専門バカと言われるほどに、それにのみ注力している。以前はその対象が、一見学術的に意味があるモノにのみ価値があったが、それさえも変わってきた。いわゆるオタクだ。サブカルであろうがマニアックであろうがなんでもいい。さらにさらにそれは変わりつつあり、それこそ毎日にのお弁当のデザインなどという切り口さえも許されつつある。

 

対象が○○だから相手にならない…なんていっていることこそすでに遅れている。それは編集する能力が自分にないということを公言していることに他ならない。その対象がなんであったとしても、そこに価値を生み出す/見出すことができる。

編集能力の時代。