一生懸命は恥ずかしいなんて
いつそう思うようになったのだろう。一生懸命に努力したり、一生懸命に物事に打ち込んだりすることがあざけりの対象になる瞬間がある。
私に限ればたぶん小学生のころ。自分で一生懸命にやっていることが、たぶん行動として友達から見ておかしかったのだろう。周りのみんなが笑った。
たぶんこの時の対処如何によって、その子の人生は大きな岐路を迎えることになる。
いくら周りが笑ったとしても、そこに居合わせた教師が、一生懸命なその子の行動をきちんと褒め、周りを諭したとしたら、その子はその後に笑われようとも、一生懸命は正しい、重要なことだと心に刻まれるだろう。
しかし単純に、笑うのはやめなさい程度で抑えるにとどめると、その子の心には、あぁ一生懸命なことをすると笑われるという事が刷り込まれ、今後、一生懸命を隠すことになるだろう。
たとえば私が映画で心を打たれるのは、周りのことなど気にすることなく、その中のヒーローやヒロインが、一生懸命に一つことに打ち込むシーンだ。そして、昔ならそのほとんどがうまくいったことによるハッピーエンドだったものが、昨今の脚本ならば時には成功しないこともある。それでもその可能性に掛けて自分を打ち込む。そんなヒーローヒロイン。
そうした行動は、その行動に何かの信念や、何かの考えがなければ打ち込むことなどできない。その瞬間だけかもしれないけれど、それでもそこに信じる何かを見出し、それにすべてを掛けようと行動をする。現実にはそんな掛ける機会はそうそうはやってこない。それでも数少ないその機会は、人生の中には何度か訪れる。その際にどう行動するのか。
一生懸命は恥ずかしいんだろうか。