「自由」と言う不自由探し
「なんでもやっていいよ、思った通りやってごらん?」
一度はこんなこと言われたことがないだろうか?子供の時でもいい、大人になってからでもいい。自由に、思った通り。
…というから何でも思った通り言ってみた…ら、
「それはちょっと無理だなぁ」
「そいつはできないよ、その範疇じゃないし」
などなど、相手は何かにつけて難癖をつける。
アイデア出しでもそうだ。制限なくアイデアを…なんて言うけれど、“本当に”制限のないアイデア出しが認められることはない。
そして裏を返せば、制限なくアイデアを…と言っていること自体が矛盾しているのだ。
もしも制限がないなら、コストをいくらかけてもいいとか、時間をいくらかけてもいいとか、無茶な要求がまかり通ることにもなる。が、それはあり得ない。現実には「有限」という制約が必ず潜んでいるのだ。
その「有限」度合がどれくらいなのか?それを探すことをもって「自由」と呼ばれているだけに過ぎない。
だからこそ、自由に発想を広げているようでいて、実は行き止まりの柵にたどり着くまでのキョリを測っているだけなのだ。そうしてその距離が近いものが見つかった時に初めて、さて、それをどのように画策しましょうか?柵をより遠くに持っていくのか、策を取り払えるのか、それとも策の形を変えるのか?材質を変えたっていい。とにかくその限界を今の位置、今の形、今の素材から変える事。それが望まれている事。
と考えれば、不自由を探しにいくことが自由。
そして、その限界が遠く遠く、はるかかなたにあることを知らないで過ごすことができることが、自由。
(一番の弊害は、そうして実際は自由でもなんでもないのに、「それが自由」だと信じさせられている事じゃないかな。結局、自分でイメージにタガをはめることを覚えさせられてしまった上で、「それこそが自由」だと植え付けられてしまう。これは実は大きな弊害なような気がするんだけど。)