見ていても見えない

家で作業をしている時に、目の前のメガネに気づかずにメガネを探す、なんてことをしたことがある人は少なくないだろう。視覚ではとらえているはずなのに、情報として脳が認識していない。周りから言われて、その「スイッチ」が入って、はじめて、あぁそれメガネだよ、と気が付く。

別にメガネに限らず、目の前にあるさまざまな情報、耳に聞こえるさまざまな音の情報が、すべて理解されているわけではない。有名なところでは、カクテルパーティー効果などもきっとその一つ。自分の興味のある事にのみ「フォーカス」があてられ、そしてそれを理解しようとするスイッチが入り、それが理解される。それ以外の刺激は、単なる刺激でしかなく、刺激が情報に格上げ/変換されるためのスイッチが入っていない。

「それ」が情報に変換されるためには、その変換できるアルゴリズムを持っている事がひとつ。そして、それが情報に変換できるだろうと気が付けることがもうひとつ。刺激として情報が入ってきても、認識できるかも?ということがわからずにスイッチが入らなければ気づくことができない。

そもそも生き物として備わっている気づける情報のみならず、昨今はさまざまな人々が生み出した新たな情報、新たな意味づけに反応できるようになることが必要となってきた。そしてそれらを知るためのトレーニングを、意識する/しないにかかわらず必要とされる現在。新たな情報とは何なのか、それを解読する方法は何かという情報を日々吸収しなければならない毎日。
…ということすら意識した方が先んじる、そういう世界。

反対に、それに気づき/疲れ果て、引きこもる人も。

あまりにセンシティブにそれらを感じられるからこそ引きこもるのか、それとも鈍感だけれど許容量が極端に小さくてオーバーフローなのか。

ゴッチャにすると、マズイよね。