限界

○○過ぎると言う言葉。美人過ぎる○○とか、うま過ぎる××とか。昨今のメディアが好みそうな表現でもあり、それにまんまと乗せられて、つい手がでることもあるかもしれない。

たとえば「この値段にしては…」といった前提。それはたぶん、その人にとっては、それまでその値段において、そのような値段のおいしさだとか、さまざまな価値感があったのだろう。そしてそれこそが「限界」なんだと勝手に考えていた。

「美人過ぎる…」というのも、そもそも、美人はそんな業界にはいないとか、そんな仕事をしそうにない、という思い込みがあったにすぎないんじゃないだろうか。


限界を作っているのは、あなたや、あなたをはじめとする人ではないのか。勝手に、ここまでしかできないと、さらなる工夫をやめてしまったり、それ以上にはならないとあきらめてしまう。
そう、たぶんあきらめてしまっているんじゃないだろうか。

あのマンガではないが、あきらめたら終わりだ。そこですべてが止まってしまう。
そしてそれこそが勝手に「限界」を作っている。
物理法則など、本当に物性として越えられないようなものならともかく、それ以外の事については、何らかの工夫は可能だし、そこにそれが常識だという思い込みを入れた瞬間に、物事を理解しやすくなるのと引き換えに、それ以外の何かを受け付けなくなるというデメリットが生まれる。限界とは、そうした効率性と引き換えにした代償だったり、考え方だったりしないだろうか。そう考えることである種のスクリーニングがされて、それに関する考え方をしやすくする工夫。であるがゆえに、それを超えるような感覚が必要とされて瞬間に、そこには驚きと、ギャップが生まれる。

とかんがえると、そこにはギャップを利用した新たな価値が生じる。
そう。みんなが当たり前と思っている何かに気付いたなら、それを打ち壊せば、それが価値になる。
「当たり前を当たり前と思っている」と言う事に気が付くこと。それが限界突破の始まりであり、そここそがギャップを生み出すことによる価値が生まれる場となる。

限界。それは、チャンスであり、それが何に起因して限界になっているのかが分かれば、一気に展開が見えることになる。