イメージを描ける

「調子はどう?うまくいきそう?」

「はい…、たぶん。」

こんなあいまいな答えをしたことが何度もある。
とくに日本人の場合、控えめに物事を報告する傾向もあるため、実際にはできる可能性が高かったりする。
それとは逆に、とっても大げさに物事を報告するお国柄と言うのもある。うまくいく可能性が低いにもかかわらず、自分の実力を課題に申請したり、(できる可能性が低いにもかかわらず)相手が喜ぶことを良しとして、できると報告するなどと言う文化を持つ国もある。

国民性は置いておくとして、「できる」ということは、本来の最終形の形が頭に描けており、それに向けて物事が進んでいるはずだ。ということは、確率の高い「できる」という言葉には、たいていその最後の、できた後のイメージが描けているはずだ。

 

出来上がるとどうなるのか、どんな形で、どんな作用をして、どんな人がそれを使って、などなど、そうした具体的なイメージが抱けていればいるほど、作りこみやすくなるのではないだろうか?
それとは反対に、できるかどうかわからないというのは、その最終形が頭に浮かべることができない、どんなものになるのかが分からないということではないだろうか?

 

イメージできると言う事は、たとえ現実の結果とかけ離れていたとしても、大きな力になる。彫刻家が塊から何かを「作り出す」のではなく、塊の中に潜んでいる何かを「掘り出す」かのように。
そして、ソフトウェアと言うそれは、ぐんとその抽象度が高い製品、完成品をイメージするところに、むつかしさがあるんじゃないだろうか?