ものさし

最もいけないのは、「ものさし」がないことだ。こっちではこうやっているけれど、あっちでは全然ちがう。基準というモノすらなければ、何も始まらないし、物事を統一化、標準化することなど当然できない。

最初はでたらめかもしれないが、それでもなんとか「ものさし」が出来上がる。
度量衡の重要なことは、その大元となる原器があること。この村の1mが、隣の村では98㎝だとなると、言わずもがなでそもそもが狂いだす。

 

人は、そうした「ものさし」が決まれば、最初は嫌でもとりあえずそうした「ものさし」に乗っかった測定基準に準じて動き出す。そして工夫するところは、その「ものさし」に乗っかる前のところをいかに行っていくか、効率化するかと言うところに注力しだす。

上の者は、そうして日々下々の者には工夫をさせる。けれど、困り始めると「ものさし上」の基準(当初は+5㎝とか、+10%とか)の値を変え、さらに困り始めると「ものさし」のメモリそのもの(当初の1mを99㎝とするとか)を変更し始めたりする。


人々は基準に従う。かなり大きな人の特性ではないかと思っている。
長さや重さのようなものさし以外であったとしても、それら「ものさし」のより良い方向へ、より評価される方向へと動き出す。

問題は、長さや重さ“以外”の測定値を、それら評価ツールを使うべき人たちが本当に測定できるのか?ということ。
「ほんとうにきちんと測っているか」を測定する観測者がいなければ、やっぱりそれは測定自体があいまいなものになり、崩壊の兆しとなることも少なくない。