数の自慢

すでに独自の生体センサーが感知して、一足早く春を「満喫」し始めている人もいるだろう。例年取りなら、今週末か来週あたりから、アレルゲンたる春の花粉が飛び始めるそうだ。

 

最近は、そもそも病にかかっていないことの方が珍しいくらいに。以前なら病名などついていなかったものにも、どうどうと病名が付き、症例として認められていたりする。
対処法が明確にされたり、市販薬が売り出されたりと、商売も盛んに。

 

俺は○○持ち、などと、病気の数を自慢していたであろう昔ならともかく、昨今ではそんな話は誰も聞く耳すら持たなかったり。すでに飲み屋での話のきっかけになるくらいにしかならず、何の値打もない。


何でもそうだけれど、数を自慢する人がいる。それは、その「事」自体に対しての共通認識ができている際には有効な会話手段だけれど、共通認識ができているレベルゆえに、内容が浅いこともしばしば。その道の専門家集団での間ならば、その意義も大きく違うだろうけれど、一般の間で話をしている分には、あぁそうですかと言った話に。

 

しかしそれも桁数しだい。ふーん、すごいですね…と言われるであろう数の100倍、1000倍の値を示したりすると、それはそれで違う次元に突入できる。その話をして一般で価値が認められるのは、そのあたりからだろう。

となると、それはやはり時間がかかるのがふつう。毎日習慣的にやっていたとしても1週間、1ヶ月でできあがる数字では意味がない。
結果的にはやはり、いかに継続させるか?ということが数字を作る。

 

ここにも、時間資本をいかに有効に使うべきかという裏付けが紐づいてくる。