道具は使い方次第

身近には様々な道具があって、子供は小さいころからそれらに興味を持ち、少しずつ慣れ、使い始める。ハサミや定規、カッターなどなど、生活の道具としては箸やナイフフォーク、スプーンも道具。

日常以外にも様々な道具が使われていることを知る。社会見学などがその一つのきっかけであり、そうしたところで職人が、専門家が、その作業に特化した道具を使いこなしているのを見て、カッコイイとか、不思議な面持ちでそれを記憶に刻む。

たぶん、そうした特殊作業に特化した道具の大半が、それ以外の場面ではほとんど使い道がないか使えないもの。であるがゆえに、正しくその使い方を教えてもらってこそ、その場できちんと使えるようになる。それが、専門性の高い場面での道具の使い方だろう。

道具は、正しく使えてこそ価値を生む。どの場面でどう使うのか、どこかで誰かに正しい使い方を教えてもらう事こそがその後を左右するに等しい重要な価値となる。

 

こう考えれば、さまざまな場面で様々な考え方、アプローチの仕方を学ぶという「勉強」というのは、その後の人生を豊かにする「道具」に他ならない。だからそうした「アプローチの仕方」や、「わからないときにはどう攻めるのか」といったやり方、方法を知ってさえいれば、たとえ目の前に、今すぐには分からない事があったとしても、何とかそれを乗り越えることができる。
少なくとも小中学校という義務教育、さらに現実的には高校までを含めた勉強の機会において、それを学べるし、それにより世界が広がる楽しさを教えてもらえるはず。

 

けれど、道具の使い方もまともに教えてもらえず、その道具で何が出来上がるのかすらまともに知らされていなければ、そもそもその先へとつながる道を、自ら進もうとは思わない。道具の使い方を教えてくれる、操作方法が理解できなければ、目の前に優秀な道具が転がっていたとしても、無いに等しい。(ただし、教えている側でもその教えている意味を分かっていない、考えていない、ルーチン作業の人は少なくなさそうだけど。)

 

道具を使えるようになるために、また、今はない道具を生み出して、その先の便利な世界を切り開くために。道具を使っていく。道具を駆使していく。

道具は使い方次第。わからなければ、知っている誰かに教わればいい。
いつ教わるのか?それは教わりたくなった「今」が最良の時。