疑う

ここまで世の中が複雑になり、情報が錯綜している世界においては、(もちろん以前からもそうなんだけれど)すべてのことを知り尽くすことは無理に等しい。であるからこそ、情報提供番組制作サイドは、多くの人に「分かっていただくため」に、「分かりやすい番組作り」を工夫する。

だが逆にそれもやりすぎることにより、受け手に「何も考えなくてもいい」という状況を作りすぎていないだろうか?

 

いや、こう書くと反対する意見として言われるのは、「それは受け手の責任だ」という事。もちろんそれもある。だが、あまりに噛んで含めてすぐにも飲み込める形にして「情報その他」を提供する…しすぎるとことで、そして受け手はその「与えられたものをそのまま飲み込む」事で、物事を理解したり、わかったつもりになりすぎている、そんな人々が増えすぎていないだろうか?誤解を恐れずに言えば、プロパガンダが非常に浸透しやすい状況になりすぎていないか?という事。

 

だから、少々考えたり、自分で調べたりすることを「受けて」がすればいいわけだが、それはそれで、「より分かりやすいチャンネルに切り替えるユーザー」が多いこともあり、商売にならない。ということで、噛んで含めてそれぞれに与える、今の形に収れんされているという事かと。

 

結局、そうしたことを周知して知らしめるのも「教育」であり、全てにおいて相手の立場を「想像して」対処していく、鵜呑みにしない考え方、疑う術をある程度身に着ける必要があるという事。

ただ昨今は、まさにそれと相反する思想が跋扈する。それは「効率化」であり「高生産性」だ。それは「疑わず、言われた通り、指示通りに行動だけをする道具」を求めている匂いがプンプンするのだ。いや、そんな「言われたことしかできない」人々、作業するマシンに成り下がった市民ばかりの世界において、どれだけ大きな消費欲が生まれるのかが疑問で。道具であると同時に、お客でもある労働者、人々にどこまで何を求めるのか。実は資本サイド、権力サイドのバランスが景気を左右しているとも言えそうなのだが。

それら全てを含めて、疑う。