情報をくれる「人」

学生時代において、興味のある情報は、何らかの形で友人を経由していた。

この前雑誌で見たんだけど、テレビで見たんだけど…。その友人が私に向けて、その当人の興味ある事を話してくれる。もちろん、同世代だし、興味の範囲も似たようなものなので、こちらも食いつく。

 

ただそれはよく考えてみれば、こちらも情報を出しているから、提供しているからこその情報提供。ギブアンドテイクの結果に過ぎない。こいつはこれに興味がありそうだとわかるから、似た情報を教えてくれるし、それに反応もする。何度かそうしたアプローチがあっても適切に反応しなければ、もうその友人から、その手の情報は得られなくなる。

 

大人になると、たぶんそうした情報源は、多くの場合定期的提供者としては消えていく。よほど趣味の友人の集まりやネットワークが強ければ別だが、そういう人々は周りから減り、家族プラスアルファ程度の付き合いが増える。であるため、趣味の音楽、趣味の映画、趣味の本…などといった話は、大人になるとジワリと減り始める。結果、新しいジャンルの音楽、映画、本、エンターテインメントをはじめとする刺激ある情報などは、入手経路がほとんど「自分で得られるもののみ」になり始める(ま、だから友達を作ろう…などとも言うのだが)。

 

逆に言えば、これが今でも潤沢にある人は、より彩華やかな豊かな人生を送られている事だろう。昔に比べてネットから得られる情報が増え、それら情報を取りやすくなったものの、それでもなかなか自分から情報を「取りに行かない」人も多い。それは入手チャンネル、情報源は、有るけれど自分からアプローチしに行く人は少ない、限られていると言う裏付けでもありそうだ。

 

そうした「今、情報をくれる人」がどれだけ自分の身の回りにいるのか?それも、自分といくらか興味がかぶっていて、でも違うところの割合もかなりあって刺激がある。こんな人が何人か周りにいるだけで、たぶん人生は豊かになる。

そして、より豊かな人生を求める人は、それを求めて、情報となる人を求めて、頻度に差はあれど、外に向けて動き出すのだろう。豊かになるものが、口を開けていれば降ってくるのを待つだけの人か、それとも自分から取りに行くのか。このあいだの色合いが、一つの特徴なのかな。