解と正解

小中高までの間で学ぶそのほとんどには、一つの「正解」がある。であるからこそ、試験問題としてその唯一解、「正解」を求めた場合が〇で、それ以外が×なのだけれど。

だが、大学あたりから「正解」はなくなり、社会人になってからは明らかに唯一の正解を探すというよりも、「解」、それも「落としどころとしての解」を探すことになる。

だが、なかなかその切り替えができない事もなくはない。

「いや、論理的に考えればコレが正解でしょ!」

と若気の至りで突っ込むも、上司からはたしなめられ、それ以外の解で進めることになる。この差は何なのか?

 

当たり前だが、社会に出ると、かかわる人々の数は格段に増える。そしてそういうそれぞれの人たちの立場によって、利害ととらえられるものは、時には微妙に、時には全く違うものになる。そのそれぞれに対してより良い解になるものを選ばなければならないことがほとんど。誰かにとっての最適解は、別の人にとっては明らかな間違い、×になることは選べなくなる。であるからこその「解」。

だから総意として、皆が完全に満足できる解があればそれを選ぶわけだが、通常そんなものはなく、それぞれにとって妥協点はあるものの、まぁ納得できなくもないという解を選ぶのが、社会に出てからの解。
この最たるものが政治であり、痛みを伴うものの、ほかの立場、これからの世代を考えて進めていくための解。これが「とにかく俺が困っているんだ!俺たちを何とかしろ!」とそこだけにフォーカスした対策をもとめる者もいなくはないけれど、それをどう扱うか、どうしていくかが悩ましい課題。

 

完璧なロジックだけで構築されているような数学のような抽象的世界は別にして、社会においては、「正解」はないということ。「解」しかないということ。