「理解する」こと「できる」こと
仕事をしていて思うことは、「理解すること」と「できること」を区別している人としていない人の二つの存在だ。この二つは明らかに違うにもかかわらず、けっこう多くの人が、「理解」したら「可能」だととらえたくて仕方がないらしい。
職人仕事を思い起こしてみればいい。大工職人であろうがケーキ職人であろうが、見ればその手さばきは理解できないことはない。でも道具を手にして「同じようにやろう」としても、まずできない。それこそセンサーのような目があったとしても、筋肉の動かし方、力の入れ方、角度やタイミング一つで、できるかできないかが分かれていく。人は「両手」でモノを扱うのもあり、左右のバランス、タイミング、角度、力などがすべてそろってこそ「そうできる」ということ。
だからそこには二段階あって、理解して、そのうえで訓練して、できるようになる。ごくまれに、理解せずとも見様見真似でできるようになる、それにたけた天才児もいるのだけれど、そちらを標準にするわけにはいかない。だからまずは「理解しなさい」、次に、訓練して「出来るようになりなさい」だろう。
一足飛びに、理解と同時にできるようになるのは無理だ。逆に、理解せずにできるようになった、アウトプットとして同じようなものが出せるようになったとしても、それは、ちょっとしたアクシデントやほんのすこしの条件違いで、また全くできないに戻ってしまう。だから、理屈を理解し、そのうえでスキルをつけること。
…のはずなのだが、昨今は即戦力が求められることが多いらしく、「すぐにできるようになれ」という現場が少なくないようだ。すぐに同じようなアウトプットを出すこと「だけ」に対応できるか否か。そうして育っていく人たちこそ、将来、マシンにとってかわられませんか?
人である強みは「理解すること」ではないのだろうか?