その時にさっぱりと「止める」、そのために「やる」

若い人にとっては、クラブ活動だとか趣味のサークルだとか。社会人になった後にもそうした趣味ややりたい活動に従事することが多いと思うのだけれど。
死ぬまでやり続けられれば、それはそれで構わない。だが、何らかの理由でやめなければならなくなったとしたら、あなたはやめられるだろうか。

 

もちろん人によっては、あっさりとやめられる…なんて人もいるだろう。別に好きではなかった、ちょうどやめたかったところだ…なら問題ない。でも多くは好きだから、気に入っていたからそこまでやっていたのでしょう?それをそこでやめられるのかどうか?

 

たまにプロスポーツの選手などでこう言う人がいる。体力の限界だとか、続けられなくなったなどということはある。これはこれであるのだろう。「プロの競争」に勝ち続けるのは確かに厳しい事。プロに求められるパフォーマンスは並大抵の努力では無い。だが個人の趣味や嗜好の範囲において、別に誰かと競う以外の楽しみ方がメインなら、この理由はない。そんな普通の人の場合に、未練は残らないのか?

 

そう、「なにか残しているものはないのか?」だ。今そこでやめると、「あれもやっておきたかった」とか「あれをしておけばと言う後悔が残る」とか、そういったやり残したことはないのか?

多くはこれがあるから、やり残した何かがあるから、やめたいのだけれど後ろ髪が魅かれる思いに。やめたくてもやめられない。やっぱりああしておけばよかった…。

 

でもたぶん、そうしてその時に「やめられない人」は、そこから再奮起して「もう少しやり続けよう」としたところで、やはり次のやめる機会で同じ思いをするのが落ちだろう。

 

時々、きれいさっぱりやめる人がいる。周りが驚いたり、疑ったりして、「なんともったいない!」などという感想が出ることが少なくなさそうだ。
けれどたぶん、周りがそう思うほどに頑張っていた、打ち込んでいた、自分の限界まで頑張ったからこそ「やめられる」のではないだろうか。そのくらい真剣にやり、自分のできうる限りのことをそこでやり切っている、だからこそ、もうやりつくした、やり残していることはない、未練はない。逆に真の限界が見えたから、だからさっぱりと辞められる。

 

こういう人は、次へ行っても成功することが多そうだ。なぜか?それは前に未練がなく、次のことにしっかり打ち込めるから、後ろ髪をひかれていることがないから。毎回毎回打ち込む。限界までやる。だからそこで結果を出せる。だからそこでやりきることができる。
そうして次々成果を出し、結果を出し、結局どこへ行ってもすごい人になる。そう、できる人って、どこでも「やり切っている人」ではないだろうか?その場で、その場面で、その環境で、とにかく自分ができることをやり切る。だからこそ次へ移ることができる。言い訳は無しだ。いや、そんなことを実践している当人に、言い訳するつもりもないだろう。

 

こう言っている私も言い訳は少なくない。でも、そんな言い訳無しの人が知人にいる。あの人、ほんとうにすごいんだよ。