「最後」と言うためには

昨年末あたりから、「平成最後」という言葉が踊った。平成最後の紅白歌合戦とか、平成最後の成人式とか。たぶんこれからあと数十日、平成最後の〇〇はいくつもメディア紙面を彩るだろう。

 

だが振り返ると、「昭和最後」という言葉は、今回ほどは聞かれた記憶がない。なぜなのか?

それは少し考えればわかる事。「昭和最後」という事は、当時で言えば、天皇が亡くなる、崩御することを前提とすること。であるがゆえに「昭和最後」といえば、その言葉こそが、「もう天皇がなくなるでしょ」と、ある意味非常に不謹慎なことを言うことにつながることになるわけで。だから「昭和最後」は、崩御される以前には、「今回が昭和最後の〇〇」などという言われ方をしなかったわけだ。

 

だが今回はといえば、生前退位をするということが決まり、お亡くなりになることと、元号が切り替わるということの意味づけが切り離された。そんな「最後の日」が明確にわかっているからこそ「平成最後」と言えるという事。そう、「終わりが決めれ」ば「最後」といえる。

裏返せば、「終わりが決まらなけれ」ば「最後」と言えない。逆に「最後」と自分の責務の時点で終わらせたくないから、「終わりを決めない」というのが、責任逃れでもあり、終われない日本というシステムの特徴であろう。

 

だが考えれば、これを終える、からこそ次の新しい何かが生まれる。新しいそこにパワーが使えるという事。「自分たちで終われない」何かは、「新しい事を生み出すパワーを持ちえない」という事。逆に「既存のものを終わらずに、新しいものをやる」ということをするからこそ、力の配分が小さすぎたり、遅すぎたりして、望む結果につながらない、いや結果を出すのに無理をしなければいけないことに。

 

あなたは「終わらせることができますか?」「終わらせて」いますか?