やりたい事と節約

結構ご高齢の方のご家庭でのIT環境、パソコン環境を伺うことがある。そういう人たちの中にある要望で、「バックアップは確実に、データを失いたくない」という恐怖心があるようだ。なのだが同時に「でも、電気代は節約したい。」なんてことが。
新しいものは使いたい。でも失敗はしたくない、無駄もしたくない。この感覚はわからなくはない。だが初心者の際にはどうしても無駄が出るし、失敗はある。…がそれはできるだけしたくないということ。その許容範囲が限りなくゼロに近い。

 

その感覚はわからなくはない。だが、「自分がよくわからない部分」であればあるほど、なにか無駄にお金をかけているのではないか、絶対に無駄はかけたくない…といった思いが強く出るようで、必要最低限の費用すらケチろうとする人々を多く見る。

そうした人々の一つの傾向として、自分が「わかる部分での無駄」はとても気にするのだ。が、「自分がわからない部分の無駄」は全く頓着しない。だから納得して受け入れられる部分と、誤解をしていてかたくなに受け入れられない部分とが、それはもう人それぞれにおいてまだら模様。まぁだいたいにしてそれが素人なのだが、だからこそ有識者の、良く知っている人のアドバイスに従っていただきたいのだが、そういう方に限って意固地になったりする。(まぁそうした無知に漬け込んで、金銭を掠め取られる事象も多いという事も確かで…)

 

やりたい事と、別のやりたい事が、実は背反していることを知らない、理解できない人は結構多い。それを、詳しくわかっているほかの人から説明されても、「そこを何とかならないか」と、(互いに背反する)わけのわからないリクエスト…というか、お願いをされる。論理的に説明しても、「それはわからない」と言い、「でも何とかならないか」と無理を通そうとする人においては、もうどうしようもない。

要するに自分では考えられない、でも助けてほしい。こんな時の、お願いをする側の当人が「専門知識」とさえ思えていない情報には、多くの人々が対価を払わない、払いたくない状況が生まれ、結果的に負担をかけ、搾取しかねない。ある程度は善意で無償では受けるものの、ある程度以上の手間がかかる事はやっていられない。勉強している人、学んでいる人だけが無償の苦労をするのみで、極論すればバカを見ることに。

 

いや、手助けをしたくないわけじゃない。だが、そんな考えない人、考えられない人が多すぎて、あまりに大量に対処しなければならない側、勉強した側は、かなりの時間やコストなどのリソースをその無償の善意に割かれることになる。お願いする側一人一人は「自分だけ」の目の前のことで小さなことでも、それが大量になると「コスト」になる。これを払わない人たちのなんと多い事か。

 

暴論かもしれない。だが、すでに日本人は(一部の学習者を除いて)すでに勤勉ではないのだ!その学んでいない分は、コストを支払わないと得られないものではないだろうか?それをもう少し理解すべきではないのか?当然ながら学ばなければ成長せず、成長できなければ落ちぶれるのみ。「結果としての」格差がつくのは当たり前のはずなのだが。教える側も、教わる側も、謙虚さが足りなくはないか?

なぜ、「機会としての平等」ではなく、努力するものもしないものもいる中で「結果としての平等」を標榜するのだろうか。足の引っ張り合いではないのかと。