安心へのプレリュード

職場で仕事をしている方に、お困りのことは何ですか?と聞くと、人手が足りないとか、時間が足りないとか、まぁこの手の愚痴が出るのが相場。

そこで、時々うかがってみる。

「余裕があれば、というなら、あとどのくらいの追加日程があれば、人数の追加があれば、安心できるのですか?」

 

この質問に対して、たとえ簡単であっても何らかの「裏付け」をもって、

「あと〇日」とか「あと△人」と答えることができるのなら、これはもう敬服に値する。わかりました。頑張ってそうなるように私も協力しましょうと。

だが私の経験上、そこまでの簡単な裏付けすら取らずに「日程なんてあればあるほど…」とか「人数、いくらでも…」と平気で答える人がいる。これはいただけない。

こういう人に限って、要するに物事がきちんと見えていない、段取りもついていないし、完成までの道筋が見えていない人がほとんど。あっただけ使い倒すようでは、当然、ビジネスはうまくいかない(大赤字では?)

 

これは実は個人の「お金」においても同じ構造ではないだろうか。
年に何度か話題になる「老後資金はいくら必要か」といった情報で、年金以外に〇千万円必要に、なんて記事が出たり、先日は政府が言い出してしまったりとかなりの炎上のネタにもなった。

 

すでに国民の平均的家庭像を一つのモデルとすること自体がかなり難しい状況になりつつある時代。だとするなら、「自分のケースは?」と計算しておいて、「自分で」意識を持つことは、言われるまでもなく重要だ。これだけネットが便利に使える社会であるため、精度を気にしなければ、将来の必要資産を計算してくれる保険会社のページなどはいくらも存在する。より精度高く知りたければ、契約している生命保険会社に相談してみれば、ライフプランナーなどという人が計算してくれる時代。

こうして未来をある程度見据えたうえで、自分の未来の計画を見据えた上で「だからこれからはこうやって節約しなくちゃいけない」のか、「これくらいは大丈夫なのか」といった安心を得られるか。
最悪なのは、そうした事すら具体的に先を見据えることなく、ずっと不安だ不安だ…と財布のひもをギリギリ締め続けて、死ぬ間際になってから、あぁもう少し使ってもよかったかも…という事になるのが最悪ではないのだろうか。

 

無限に使い倒したい放蕩息子のような余生を送りたい人…は、そうはいないだろう。とは言え最後は少しは楽をしたい、いや贅沢は必要ないが…というのであるなら、自分として自分の未来において「足るを知る」事の重要性は、これほど経済状況が見通しにくい時代だからこそ、必要なのではないだろうか?

見通しを立てる、計画する、もちろん精緻に出来れば良いけれど、まずは自分が納得できるレベルのものを自分で持つところから。