分かることの楽しさ

子供はなぞなぞが好きだ。

「…はなーんだ?」

必死で考える。答えを聞いて文句を言ったり、納得したり。それすらも楽しむ。

そうした遊びの中で、今まで自分の知らなかったことを覚え、それが次の足場となって、次回はさらにその上の知識へとつながる場合も出てくる。
そう、「知る事」「分かる事」は、最初はゴールに見えるけれど、それがやがて足場となって、次のステップの「知る」「分かる」へとつながっていく。

 

勉強嫌いが知らない事は、たぶんこの「知る喜び」や「分かる快感」なのだと思う。それよりも「間違って怒られる不安」や「訂正されて承認されない不満」ばかりが募っているのではないだろうか。その結果、怒られる、貶められるくらいなら、コレは諦めよう…とドンドン選べる「道」が無くなって、やがてそこで止まらざるを得なくなり。
もちろん、だからと言ってすべてを「正解」にするわけにはいかない。だが、不安や不満にならない形で「喜び」へとつなげ「快感」へと昇華できるステップを周りも気を使い、自らが会得すると、ほっておいても学ぶようになる。この「カタパルト」に乗れるか否か。

 

快楽としての勉強。この境地へと至ることが出来さえすれば、誰もがそこへと進みだす。さらにそうして学んだことが、当人の徳はもちろんのこと「誰かの得につながる」という喜びを認識し始めることができれば、誰もがこぞって仕事をしだすことにつながる。

 

別にそれは、学校の勉強に限らず、音楽や体育や芸術でも構わない。ただ、「誰かのためになるアウトプット」への道は、そうたやすいことではない。
…といっても諦めることなく、身近な誰かの役に立つところから始めれば、家の中で誰かの役に立ち、隣の誰かの役に立ち、町内の誰かの役に立ち、市民の誰かの役に立ち、県民の誰かの役に立ち、地方の、国の、地球の誰かの役に立つのは、ステップに過ぎない。

 

本当に小さくとも「成し遂げたい何か」が見つかれば、それを解決する方法を探せる。実行する。小さな成果になる。嬉しい。たのしい。

だが「何をしていいのかわからない」状態では、解決すべき課題さえ見つからない。そう、どうなりたいのか、どうしたいのか、どうありたいのか分からず動けない。「それ」が必要であり、「それ」を考えることにすべてがつながっていることを認識する必要がある。その方法であり、きっかけをつかむ作業、それが「分かる」という事。そして今困っている何かをこうあってほしいという理想の形がイメージできれば、あとは、行動するのみ。