ギスギス

社会生活をしていると、なんでこの人こんなに非礼なの?とか、人の行動が気になったりとか、そんな人ばかりだ…と腹立たしくなる人もいるだろう。そこで黙って我慢することもあれば、一言いっておこうとしたりする。だが、一言いったばっかりに、とんでもない相手に当たってしまい、(昨今の例でいうと)煽り運転をされて事故に巻き込まれたり、暴力沙汰に巻き込まれたりもする。こんなギスギスした世の中の風潮を、特に最近強く感じるのはなぜなのか。

 

一つはそういった様々なサービスが、様々に細かくカスタマイズ可能になったことで、細かくカスタマイズできないサービスでの「ここでも俺様は」という傍若無人ぶりを抑えることなく行動するようになってきたことではないのか。たとえば、電車での席の座り方、足の広げ方一つとってもそうではないだろうか。

ではなぜそんな状況になったのか?いや、昔からある事はあるのだろうけれど、それは今でもそうだが、我慢していた人もいるはずだ。自分だけは…と、すべての人がそんなことをし始めたら、それこそが息苦しい社会になる。ギスギスした嫌な空間になる。だから、互いに少し我慢していた国、それが以前の日本人だった気がする。

 

けれどこの10年20年、氷河期世代などという就職で躓いた世代が出てきたり、それ以前の世代においてさえ、景気が上向かないことでリストラの憂き目にあった人もいただろう。リストラには幸い合わずとも、社内にいたところで「仕事の効率化」でギリギリと締め上げられ、個々人の余裕すらすべてを仕事に振り向けよと搾り取られる。そうして締め上げられた帰りの電車くらい、ちょっと楽にさせてくれよ…とだらりと足を広げたくなる心境は、わからなくはない。が、やはりそれでは社会がギスギスし始めるのではないだろうか?

 

電車の中のみならず、車を運転している途中での、割り込みや車線変更などにイラついている人も少なくない。「全部、景気がわるいんじゃー」と言いたくなるほどに、人々が疲弊している。さらにそんな中、増えるのが老年の元気な方々。彼らは「はい、私たち今までずっと働いて苦労してきたんだから、道を開けなさい」などと、我が物顔で通ろうとしたり。で、若い人にたしなめられたりする「あんたたちの年金を捻出しているのは誰だと思っているのだ!」我慢だけでは限界だ。
老人も老人だし、若者も若者だし、そんなことをやったり言ったりしなければならない世界自体が、すでに病んでいるのではないだろうか?

 

たぶん、来年の今頃、景気が勃興…しているとは考えにくい。
日本はどこへ向かうのだろう?若者が暮らしていきたい国…にならなければ、今こそ頭を使うとき、知恵が求められているとき。…でなければ、滅亡する日は近い。