解答への道

日本の(特に)義務教育は、解答を覚える事が多かった。であるからこその「詰め込み」などと揶揄される教育方法が、たびたび問題になってきた。

たとえ数学であったとしても、その方程式を解く「一般的な方法」を覚えるというよりも、その操作方法を学んでいさえいれば、解ける問題が多かった。

 

だが、そうした「操作」は、早晩AIに追い越されることが見えている。逆にAIでは解けない問題は何かというと、そこから問を読み解き、問によって構築すべき方程式を組み上げることが求められ始めている。

さらにAI続きで言えば、何を問いとするかはまだまだ人間の方が勝っているのではないか。なぜならば、何に困っているのか、どう困っているのかは、困っている当人でしかわからない。人間でしかわからないからだ。
逆に、AIとして困っていることを解決するのはAIにはわかりやすいだろう。であるがゆえに、AIが解決していく社会の考え方に偏りが生じるとするなら、よりAIにとって住みやすい、逆に場合によっては人間にとって住みにくい世界に変わっていくかもしれない。そのようなデストピアの世界は、すでにSFの世界にはたくさん描かれているのだが。

 

となれば、結果的にAIなどにとってかわられにくい部分こそが人間としての力の発揮のしどころ。だがそれは「考え方」や「発想」の部分に近づくことになり、特に旧来の「暗記もの」の試験では評価でき辛くなりつつある。そう、「試験の採点に時間と金が必要になる」という事だ。
効率化が叫ばれている中で、試験の採点をいかに効率化するか…というところで金をかけなければ、将来役に立つ人間が作れなくなるという事。いや、こここそ「効率化」で評価してはいけないところなのではないか。教育というのは時にこういうことがあるからこそ、「効率化のみ」の視点では決して良い方向に進まないというのはよく知られていることだ。

全てを効率化するというのなら、規格化された人間を作り、事実上のロボットを作ればいい。言われたコマンドに従い、希望するアウトプットを出す。ただ、それで「人が生きる意味」を創造できる世界になるのか、そもそもそうした世界が幸せなのか、言われたアウトプットだけを期待しているのか。ずっと昔からSFが描いてくれている。