日本の変化

いくつかのBlogの記事でこうしたものを見かけた。

 

事務所に新たに派遣社員さんが入った。Excel等を使いこなすすべにたけており、既存のファイルをしっかりと分析したうえで、マクロを駆使して、作業の効率を測った。いわば作業効率を向上させたわけだ。結果どうなったのか?その人は止めさせられる羽目になるらしい。理由はこうだ「ズルい」。

 

信じがたいがそのような事務所、会社が現存するのが日本。この社会に、オフィスに、どうやって「効率化を望もう」というのだろうか?
マクロを書いたり、作業効率化をすることが望まれている昨今、信じられない行動だ。たぶん、「一人の誰かがそうして効率よく作業をすることで、他のみんなの作業効率が低いことがばれてしまう」とか「私たちが日々、非効率に仕事をしていることで食い扶持を稼いでいるのに、それが稼げなくなる」という事かもしれない。要するに、『本質的に効率化したくない人々が少なからず存在する』という事であり、『効率化を主眼とした作業評価軸がない』という事も言えるのかもしれない。

 

こんな企業を生き延びさせる意味があるのか?保護費用を使ってまで延命させる意味が分からない。要するにすでに大人になった今現在、今より学習したり、新たなことを学んだりすることをしたくない人々が、かなりの数存在し、そうした人々に「よりそう」からこその、非効率な社会が温存されているという事だろう。

 

非効率でも未来永劫生き延びられるのならそれも一つの選択肢だ。が、それでは国家間の経済競争に負けそうな事実が突きつけられている。
すでに日本は貧しい国への道を一直線に転げ落ちている時代。工業大国?アウトソースする方が安い?すでに中国で作るより、日本で作る方が安いものがある事実に目を向けた方がいい。技術的要因ではなく、コスト的要因として、日本人が「安くなっている」、言い換えれば世界の中において相対的に「貧しくなっている」のだ。今まで通りで見ないふりをして逃げ切れるのは、ごく少数の人たちだけだろう。痛みを伴う変化をのちに先送りするほど、「痛みの大きさ」は増すのは想像に難くない。