与えられることに慣れてしまうと

何かものごとを与えられることになれてしまうと、一部の人は別にして、それは早晩支配される方向へと動き出す。

 

仕事を与えられる。

食料を与えられる。

価値を与えられる。

自由を与えられる。

 

いずれにしても、与えられているうちは、「それが当たり前」と思いがちで。実は奪われてしまえば「すぐに行き詰まる」事になるのはわかっているはずなのに。

 

もちろん、結果的に「ある一部分」に関しては与えられなければならないという立場も当然あり得る。であるからこそ、その部分以外のところでカウンターを持っておかなければ、完全に支配されてしまうわけだ。だからこそ、その部分を自分ごととしてどう生み出すのか。

 

自分で仕事を作り出し、

自分で食料を作り出し、

自分で価値を作り出し、

自分で自由を勝ち取って、

 

こそ、それ以外の何かと対峙することができるという事。もちろん簡単なことではない。何も考えることなくできる事でもない。であるからこそ、「考えて」「行動して」これらを自らの力にする端緒をつかむ必要が出てくるわけだ。チコちゃんに言われるまでもなく、ボーっと生きていては何もつかめない。何も得られない。誰かのいいなりに、誰かのシナリオに沿ってしか生きていけなくなる。最悪、生かされている状況で、生殺与奪を握られる事になる。

「でも自分たちの親の世代は、そんなややこしいことまで考えていたのか?」こうした疑問を持つ人もいる。それは時代としか言いようがないかもしれない。50年前の東京オリンピック当たりの時期ならば、「日本」が、経済成長率5%、6%…といった数字をたたき出していた時代なら、誰かの引いたレールに乗っかっていても、社会の波に乗っているだけでも、多くの人が幸せになれたのかもしれない、そんな、ある意味では恵まれた時代もあった。でも今は違う。

与えられている以上の何かを自分で考えていないと、考えて動いていかないと、その「与えられた軌道」から脱することができない厳しい時代だともいえる。

 

自分でできることは何か、それを成し遂げるためにはどうすればいいのか?すでに「国」という概念は、ネット社会の今、それに縛られている事自体が、自分で制約を作っているに等しいのかもしれない。それすら抜け出して、みずからが何かを生み出すことへ。この考え方は、個人レベルでも、自治体レベルでも、国のレベルでも。