やりやすくなってしなくなる

いつでも会える仲間とは、日ごろから、そうそう詳しい話などしない。
しかし、その仲間と別れることになると分かったら、たとえば学校を卒業したり、プロジェクトが解散したりすると、とたんに頻繁にまた会おうといい始めることがある。

いつでもできることは、すぐにはしない。でも、いつでもできない状況になると、必死でやろうとする。どうやら人間にはそんな特性がある気がしている。

 

ネットがこれだけ行き渡ったことにより、携帯電話がそれぞれ個人にこれだけ行き渡ったことにより、人々はすぐにコミュニケーションを取れる環境が整いつつある。それも、音声のみならず、場合によっては映像を含めてコミュニケーションを取れる。
であるのに、いまだに様々な現場で重要なキーワードの一つが「コミュニケーション」だ。これだけ簡単に取れるコミュニケーションが重要だと言っている。となれば、その「コミュニケーションが意味する事」を深く認識できているか否か。

 

たぶん、いつでもできるようになって、やりやすくなったことで、そもそもコミュニケーションしなくなってきているのではないか?表面的には各種テクノロジーが発達したことによって、「音声の交換」はしやすくはなっているものの、実はそこにおいて、様々な情報、例えば、しぐさ、視線、ちょっとしたタイムラグ、雰囲気や「空気」と呼ばれるものが削げ落ちている、もしくは重要性を意識できていないのではないだろうか。

 

やりやすい環境がそろう事で、やらなくなり、いざやろうと思っても、しなくなっていたり。
だから、やれるときに「意識してやってみる」事。「やれない時には諦めてしまうという」のも手かもしれない。それは連絡を絶つという事ではなく、「いつもの人々とやりにくい状況にあるときには、それ以外の人を開拓するとき」という捉え方でもよいのではないだろうか。その上で、何が伝わっているのか、何が伝わらないのか、伝えるべきは何かを意識する。

やりやすくなったからしない、もひとつだが、それによって、じゃあその時間をどう使うかも考えてみたい。