弱者のふりをした強者

弱者視点にこだわったり、知らない事を武器にして議論するのは、義務を背負いたくないだけではないのか?

もしも知っていれば、分かっていれば、当然背負わなければいけない義務はでてくる。それを、「知らない事」をいいことに、何でもやらせてもらえる、させてもらえるという勘違いをしている奴がいる、そんな気がする。いや、勘違いしている「ふりをしている」奴らが増えているような気がする。
そもそも「知らない」ことがヤバイ時代になりつつあるはず。だから知らないことはないはずなのに。


だからだろうか、「知りたくない」人も増えているような気がする。今どき手元にはネットに接続できる環境が山ほどあるのに、自分で調べればすぐすむものを、他人にゆだねようとする人がいる。
スマートホンはゲーム端末に成り下がり、指で撫でてブロックを消す事には力を入れるものの、知の道具としては使えていない人が多くないだろうか?
ひと昔前なら、外に出てまでゲームなんて…と大人が子供を戒めていたはずなのに、今じゃ大人も一生懸命におもてでゲーム。

 

情報強者になることにより、背負うものが増え、縛られることが怖い。だから「弱者のまま」でいたい。弱者であり続けたい。だってその方が「強い」のだから。みんなが守ってくれるのだから。くれるはずなのだから。

この意識こそが変わらない限り、歪みは是正されないのだろうけれど、まず間違いなく、100%是正される世の中にもならないだろう。
常に世の中はグレー。100%には染まり切らない。

 

そして「…てくれるはず」の世界も、変わろうとしていることに気付けなければ。