事実を見ないと
ものづくり日本…と言われて久しいが、さて、「今」でも本当に「ものづくり」の国なんだろうか?
どの街でもよいのだが、たとえば今の秋葉原でそれが感じられるだろうか?
家電で世界を席巻していたかもしれない時代は、感覚としては1980年90年代あたりまで。21世紀を迎えると、中国、アジア家電、さらに今でもブイブイ言わせているApple、サムソンが、大きく羽ばたいている感じ。もちろん、日本の家電業界も生き残ってはいるけれど、シャープは?東芝は?ご存知の通りだし、PanasonicやSONYも、昔の栄光はあれど、今一つパットしていない感覚だ。
それでも、おじさんおばさんたちは、「松下は、ソニーは、すごいんだぞ!」みたいな昔の感覚を心の中に持っていて、ある意味「誇り」にしている感じ。だから事実を知りたくないし、知ろうとしない。
他方、家電は上記のような感覚だけれど、自動車はというと、トヨタが非常に頑張っている。だからこそそのほかも…と信じたい。そう、「信じたい」。事実を見て判断している人はごく少数ではないだろうか?
私も結構間違えがちだが、多くの場合、「感覚」で話をしがちだ。もちろん井戸端会議レベルではそれで全く問題はないのだが、決断したり、前に進んでいく際においては、「感覚」では非常に心もとない。そんな決断の際のよりどころが「過去の栄光が今でもそうあって欲しい」という感覚では、当然ながら選択を見誤るし、そこで見誤れば(ただでさえ、か細い投資が)無駄に終わり、取り返しのつかない状況に陥る事さえある。
けれど、多くの人は、様々なデータ、情報を見ようとしない。また、見たい情報がどこにあるのかも無頓着であったりする。時に欲しい情報はこれだとイメージできたとしても、その情報がどこかにまとまっているとは限らない。だからその情報をまとめなければならない時もある。しかしそれは明らかに「スキル」。それをまとめ、その情報が埋もれている中から救い出し、ある方向性をもって見せる必要に迫られる。誰もがすぐにできることではない、が故のこれが埋もれている事実。
世の中はノイズにまみれている。見たい情報は、見たい人にしか見えない。見ようとしなければ見えない。だから「事実とはなんだ」と問い、見たいものをイメージし、それに応じた「事実の塊」を掘り出してこそ見える事実。そしてそそれをもとにして判断し、前へ進んでいく。