余裕がない社会

なんらかの「ルール」が制定されると、そのルールの内側では、ルールギリギリまでは、ルールとしてOKの範囲だ。たいていギリギリのそこが一番恩恵を受けられるであろうおいしいところ。
だが、そういうキワキワの部分は、危うさもはらむことが少なくない。だから通常は、ギリギリよりもずいぶん内側でバランスがとられていたのが、もしかするとこれまでの社会だったかもしれない。

 

だが昨今の社会状況、経済状況では、そんな「ずいぶんと内側」で安穏としていられるほど、社会も、個人も、余裕がない状況。であるがゆえに、ルールならば、ルールギリギリ、キワキワまでを取りに行こうとする人が少なくない状況になっていないだろうか。

だって、ルール上、「そこまではOKなんですから」。

 

だから人はみな、ルールを作れば、そのルールの中で利得が最大になるように最適化をしてくる。いや、それこそがルールのルールたる所以。だが、そうすることで今度は逆に「個別最適化」が強すぎて、全体としては「非最適化」されたシステムや組織になることも散見される。だから組織は、「…というルールですが、このくらいにしておいてくださいね」などと訳の分からないことを言い始める。

「フレックス勤務を採用します…が、基本的に朝9時までに出社してください」などがいい例だ。なんなのだコレ、ルールが設定されたが、それよりもずっと内側を歩いてくれ…って、そこがルールなの?建前ルールと本音ルールと。

 

本音と建て前で、本音のルールがあったうえでの、建前が明文化される。多分、明文化されたものに従う社会では、まったく理解できないであろう世界。建前ルールで本音を察しろ、空気を読め!という見えない力。貧すれば鈍する、余裕がなくなった社会、国が直面する世界というのは、まさにこういう事なんじゃないかと感じている。