自分を正しく知ること

証券会社などにおいて、営業マンの営業トークの一つとして、「ほら、皆さんの平均値はこうです。あなたはどのあたりですか?」と示したうえで、営業を始める。これ、ある意味で、こうした金融商品においては常套手段ではないですか。

 

「平均値」は、真に母集団が均一に散らばっている場合においては、重要な意味を持つ。しかし母集団内において散らばりに大きな偏りがある場合には、その平均値が示している値のみを頼りにしていては大きな誤解を生じることがある。

 

たとえば、とある学校のクラスのテストの点数状況で考えてみる。
a) 10人のクラスメートの内、20点が1人、30点が2人、50点が4人、80点が2人、90点が1人なら、平均点50点。このクラスの平均的状況を表していると考えてもよいだろう。

だが、
b) 100点が2人、20点が3人、10点が5人で、平均点31点ととらえるのは良いのだろうか?半数以上が平均点以下のこのような状況においては、平均値は何を示しているのか、平均点の意味がわからなくなる。

 

そんなときに使われる指標が中央値だ。中央値とは、その母集団のデータ個数としての真中の数字。10個の場合は、5個目と6個目の数字の平均値を取ったりする。
とすると、a)の場合の中央値は、下から5番目と6番目のクラスメートの点数平均なので、50点。これは平均値と一致する。

だが、b)の場合の中央値は、下から5番目が10点、6番目が20点だから中央値は15点だ。平均値の31点とは2倍以上の乖離がある。中央値と平均値。b)のケースでは、どちらがクラス状況の雰囲気を表すのに適切か。クラスの点数状況を捉える意味のある数字はそれらを勘案して選択すべきでは?

であるから最近の統計値の発表において、平均値だけではなく、中央値も出ていることが多い。

 

だが、これとて「中央値」だ。「私」の生活は中央値だったり、平均値だったりするのだろうか?そもそも人は人、自分は自分ではないか。昔の日本のように、「総中流社会」ではないことは明白な事実。であるなら、「自分」を知って、それに対して「自分」で自分の未来を計画していくしかないわけだ。
とは言え、まったくのゼロから情報を組み立てるのはむつかしい。そんなときに、中央値や平均値を「参考にして」、だからこのくらいでやっていくとか、このくらいを目指すという「指標」にせざるを得ないという事。だれもが平均値の値で、中央値の値で、生活しているわけではないのだから。

 

世間の健康指数として、コレステロールの世代平均値が上がっているからと言って、明らかにやせ気味の人が食事制限をしたりするだろうか?それはあなたがやるべきではない、と誰もが一目見ればわかる事。今回の2000万円騒動とはそういうことではないのか。

 

平均の数値に踊らされる事なかれ。「自分」の数字を知ろう。そして自分の行動を決めよう。

 

 



平均だけを知ることは、一つの目安ではあるけれど、あまり重要性は高くないのでは。