辛過ぎたら

やめよう。

すくなくともまだ今の日本なら、他の何かで生きていける可能性は高い。

 

感覚的ではあるけれど、今の日本は、それぞれがそれぞれの余裕を削りながら生きている。国自体としては、ほんの少しずつ少しずつ貧しくなっているのはほぼ確実だけれど、各社、個々人では出来る限りそうならないように、個々に、個別に、何とか踏ん張っている。

であるからこそ、それぞれがギリギリまで努力して、そのために、他人をねぎらえるほどの余裕すら削り取って生きている感じがする。だから世の中はギスギスし始め、些細なことで諍いが起きたりもする。

 

もちろん、仕事が楽しい人、面白い人はそれに邁進してほしい。時には超えるべき山が大きく前を遮ることもあるかもしれないけれど、それを超えれば一つ大きくなった自分になることができるはずだ。

だが今一度考えたい。なんのために仕事をしているのか?「仕事のために生きている」のではなく、本分は、「生きるために仕事をしている」はずだ。だから、「仕事がつらすぎて生きていくことができない」のなら、「あきらめよう」「やめよう」よ。

 

幸いなことに、自分はそこまでにはなったことがなかった。けれど人によっては、「つらい、でもやめられない」という状況は起きうるようだ。

となれば、「やめられる判断ができるうちに」やめるしかない。 抜けられなくなる事自体が、破滅への一直線になる。

 

逃げる?それは甘えでは?もちろん、逃げる/辞める閾値が低すぎれば甘えかもしれない。だが、あまりに閾値が高すぎれば、甘える間もなく自分が壊れてしまいかねない。昔はもしかすると、日本の社会全体がそれらを見つめ、個人を潰しかねない危険水域を避ける運用がなされていたかもしれない。が、先にも書いたように、今は社会全体が余裕を失いつつある。自己防衛能力がより必要になっている状況に見える。

残念ながら、この許容できる余裕部分は、自分でしかわからないところがまだまだ大きいと思っている。もちろん、産業医心療内科のような病院もあるのは知っているけれど、そこにかかる時間すらない人もある。

まずは自分の閾値を知る事。そして、つらいのなら、休もう。やめよう。

ある意味での、銭儲け主義、資本主義の暴走状態とどうたたかうのか?だと感じている。