群れる

インターネットが世界に普及する前は、個々の情報を交換する手段は乏しく、ありがちなのは、いわゆる「井戸端会議」的情報交換の類が主流であったのだろう。せいぜい学校や、地域の集まりなど、その物理的な集まりを出ることができなかった。それゆえ、群れる大きさはたかが知れていた。

 

だが、インターネットの普及が進み、メールやBlog、SNSなどが当たり前になった時代。コミュニケーションの手段は距離の壁を軽々と乗り越えた。これにより、たとえ地球の裏側に居ようとも、通信環境さえ整っていれば、情報的に「群れる事」は可能になった。

ただし、それによる弊害ももちろん出始めている。ビデオチャット、音声チャット等もあるものの、まだまだそうしたコミュニケーションツールの前提は「文字」ベースだ。であるからこそ、文字での表し方の得意な者と苦手な者による格差によって、認識の齟齬が生まれ始めている。

さらにネットリテラシー、いわゆるネットで流れてくる情報をどう読み解くのか、どう発信するのかといった根本的なスキルは、まだ現状世代において均一化されたものになっていない。ということで、言葉足らずが誤解を生み、「物理的に会って話をしていれば」すぐに訂正されそうな内容でさえ、「文字ベースのやり取り」では、誤解がこじれて分断が生じることにもなりやすい。

結果何が起きているかというと、いわゆる「炎上」があちこちで当たり前のようになっている現代。これは由々しき事態だ。せっかく、より簡単に「群れる」事ができるツールがそろっているにもかかわらず、そのツールを使うスキルが低いことによって、「群れる」機会をより失っていることになってきている。

 

 

私はこう考える。弱いものほど「群れる」べきなのだと。
群れる事で大きな力に対抗し、群れる事で個々の小さな意見も大きな意思にぶつけることができる。逆に言えば、群れられなければ力を持ったものに屈服せざるを得ず、群れられなければ弱い者ばかりが虐げられる世界になる。

 

そのためには、より「群れる」事。そして「群れる」ために、それぞれが賢くあらねばならない世界になりつつあるのだと。