集中力

家の中において「テレビ」を付けなくなって久しい。これによって時間が今まで以上に有効に使えている「気分」を味わっている。

 

テレビがあった暮らしの時期には、なんとなく着けていた。目がそちらに向いてしまっていた。そうした「ながら族」では、当然のことながら考え事などできない。視覚による思考の遮断は顕著だ。自ら考えなくとも、情報が流入してくる。音のみならず、映像上の情報量は莫大だ。

 

それに対して、ラジオや、もちろんラジオ以外のBGMは、時に無意識な状況で「聞こえなくなること」がある。テレビの場合「見ていても、見えなくなる」ということはないのだが、これは聴覚特有なのだろうか。

であるために、Youtubeなどに「作業用BGM」などというジャンルができるほど、雰囲気のよさげな、おとなし目な長尺の音楽ジャンルができていたりする。

 

集中できる時間には限りがある。もし限りがないなら、「ずっと集中」していられればよいけれど、これは非常に疲れる。そう、「脳が」疲れてしまう。となると、人によって違いはあれど、「集中できる時間」は有限。この有限時間をどう使えるのか、どう使うのか。テレビを見て徐々に痺れた脳を作って使い切ってしまうのか、ラジオを聴くだけで使い切るのか、それとも何かの誘導材料を利用して「集中する時間」に入り込むのか。

 

オリンピックのアスリートなどはたぶんそれを「フローに入る」と呼んでいたりする。その感覚に突入すると、非常に効率よく、行動できたり、アイデアが浮かんできたりする。

いかにその状態を作るのか、それを作れる環境を整備しておくのか、その中に身体をゆだねるのか。社会全体が勃興している時期は、周りに流されていたとしても、良い思いを享受できたかも知れない。だが明らかにもう日本は精神國の最先端からはズリ落ちている状況。それぞれがそれぞれに活動していかないと。“過去の亡霊"のやり方に習っていられる時期はもう終わったのではないだろうか。

 

本気が笑われた時

子供同士は残酷だ。誰か一人が本当に真剣に、本気で、真面目に、必死に取り組んでいたとしても、それを面白おかしく感じる「ほかの子供」が、その一人を揶揄したり、笑いの対象にしたりする。これだけでその本気の子供は窮地に陥るわけだ。笑われている、恥ずかしい!

 

ここに大人がいた場合、その大人の対応ひとつで、その子の人生を大きく変える可能性がある。たとえ大人が見てつまらないことに見えたとしても、その子の「本気度合い」が見えたなら、

「こら、みんな、笑うところじゃないぞ。〇〇ちゃんは一生懸命やっているんだ。これはとても大切なことなんだ。〇〇ちゃん、頑張れ。そのまましっかり最後までやってごらん?他のみんなはこんなに一生懸命できるかな?」

例えばこう言われれば、この一生懸命な子はある意味救われる。そうだ、自分はやっぱり正しかった。このまま一生懸命やっていていいんだという自信がつくことになる。この先も諦めにくい何かがこの子に宿れば、それは一生の財産にすらなり得る。

 

ところが、大人の対応が間違えると…。

「ほらほら、みんなも終わっているんだから、そんなつまらないことにこだわっていないで、早くやめなさい。もうおしまいだよ」

その子が「本気」で取り組んでいたとしても聞く耳を持たず、強制的に辞めさせられる。何も私のことを見ていない。私のことを理解していない。子供がそんな複雑な思考をするのか?いや、するのだ。「わかってくれない大人の行為」を子供は決して忘れないし見逃さない。大人の理屈をしっかり見破っている。だから、本当に自分のことを見てくれている大人と、そうでない大人を、きちんと見極めている。

 

であるからこそ、「本気」をいかに掬い上げるか?それぞれが「本気」で取り組んでいる機会はそうそう多くないはずだ。

別に子供だけに限らない。大人において、本気で、真剣に取り組んでいるやつをバカにしたり、蔑んだりして扱う奴らは最低以下だ!

そうして諦めさせられた大半の子供たちが成長した世界が…今。

 

疑う

ここまで世の中が複雑になり、情報が錯綜している世界においては、(もちろん以前からもそうなんだけれど)すべてのことを知り尽くすことは無理に等しい。であるからこそ、情報提供番組制作サイドは、多くの人に「分かっていただくため」に、「分かりやすい番組作り」を工夫する。

だが逆にそれもやりすぎることにより、受け手に「何も考えなくてもいい」という状況を作りすぎていないだろうか?

 

いや、こう書くと反対する意見として言われるのは、「それは受け手の責任だ」という事。もちろんそれもある。だが、あまりに噛んで含めてすぐにも飲み込める形にして「情報その他」を提供する…しすぎるとことで、そして受け手はその「与えられたものをそのまま飲み込む」事で、物事を理解したり、わかったつもりになりすぎている、そんな人々が増えすぎていないだろうか?誤解を恐れずに言えば、プロパガンダが非常に浸透しやすい状況になりすぎていないか?という事。

 

だから、少々考えたり、自分で調べたりすることを「受けて」がすればいいわけだが、それはそれで、「より分かりやすいチャンネルに切り替えるユーザー」が多いこともあり、商売にならない。ということで、噛んで含めてそれぞれに与える、今の形に収れんされているという事かと。

 

結局、そうしたことを周知して知らしめるのも「教育」であり、全てにおいて相手の立場を「想像して」対処していく、鵜呑みにしない考え方、疑う術をある程度身に着ける必要があるという事。

ただ昨今は、まさにそれと相反する思想が跋扈する。それは「効率化」であり「高生産性」だ。それは「疑わず、言われた通り、指示通りに行動だけをする道具」を求めている匂いがプンプンするのだ。いや、そんな「言われたことしかできない」人々、作業するマシンに成り下がった市民ばかりの世界において、どれだけ大きな消費欲が生まれるのかが疑問で。道具であると同時に、お客でもある労働者、人々にどこまで何を求めるのか。実は資本サイド、権力サイドのバランスが景気を左右しているとも言えそうなのだが。

それら全てを含めて、疑う。

 

手にしているもの

すでに日本の核家族化も進んだ今、出生率も低めなわけで、親子に子供一人、という三人家族が増えているだろう。

 

一人っ子は、こどもである自分だけに優先的に、おやつも、おもちゃも配分されるため、当たり前のように「与えられる」事になれている。だから、たとえ何かの理由でだれかにそれを取り上げられたとしても、また後になれば「自分にだけ」再配分されるという安心感を持っているところが。

 

だが兄弟姉妹、それも年齢が近いほど、自分だけに配分されるというよりも、兄弟で、姉妹で「分け合って」配分されることが増える。もちろん、仲良く半分こする子供たちもいるだろうけれど、時に自分の気に入ったものは少しでも多くほしいときなど、できるだけ多く「奪い取る」ことに血道をあげることになる。なのでシェアの公平性にはシビアなのだ。

 

子供のころはまだいい。大人になれば、与えられる世界はもうそこにはなく、自分で稼ぎ出し、自分で奪い取るつもりにならなければ、正しく配分されない状況がある。

もちろん、法やルールが守ってくれるところが大半ではあるが、最後の最後は「奪い取るつもりかどうか」が大きな違いを生み出すことに。

 

与えられたものは奪われやすい。

逆に、勝ち取ったもの、自分が努力して獲得したものは、そうそう簡単には奪われない。だから、自分で獲得する、継続的に獲得していける自分の仕組みを作る事。手にする、という事の意味を噛みしめる。

 

「最後」と言うためには

昨年末あたりから、「平成最後」という言葉が踊った。平成最後の紅白歌合戦とか、平成最後の成人式とか。たぶんこれからあと数十日、平成最後の〇〇はいくつもメディア紙面を彩るだろう。

 

だが振り返ると、「昭和最後」という言葉は、今回ほどは聞かれた記憶がない。なぜなのか?

それは少し考えればわかる事。「昭和最後」という事は、当時で言えば、天皇が亡くなる、崩御することを前提とすること。であるがゆえに「昭和最後」といえば、その言葉こそが、「もう天皇がなくなるでしょ」と、ある意味非常に不謹慎なことを言うことにつながることになるわけで。だから「昭和最後」は、崩御される以前には、「今回が昭和最後の〇〇」などという言われ方をしなかったわけだ。

 

だが今回はといえば、生前退位をするということが決まり、お亡くなりになることと、元号が切り替わるということの意味づけが切り離された。そんな「最後の日」が明確にわかっているからこそ「平成最後」と言えるという事。そう、「終わりが決めれ」ば「最後」といえる。

裏返せば、「終わりが決まらなけれ」ば「最後」と言えない。逆に「最後」と自分の責務の時点で終わらせたくないから、「終わりを決めない」というのが、責任逃れでもあり、終われない日本というシステムの特徴であろう。

 

だが考えれば、これを終える、からこそ次の新しい何かが生まれる。新しいそこにパワーが使えるという事。「自分たちで終われない」何かは、「新しい事を生み出すパワーを持ちえない」という事。逆に「既存のものを終わらずに、新しいものをやる」ということをするからこそ、力の配分が小さすぎたり、遅すぎたりして、望む結果につながらない、いや結果を出すのに無理をしなければいけないことに。

 

あなたは「終わらせることができますか?」「終わらせて」いますか?