責任を背負い込みすぎないためにも

それは決定的に、見える化だ。

見える化することで、判断材料を提供する。データ化と言い換えてもいいかもしれない。そこに至る証拠、エビデンスを準備し、提示する。さらに完璧を期するなら、そのうえで、「…といったこのような状況ですので、自分ではこうしたほうがいいと考える」という案を付け加えて、上長に判断を仰ぐ。

 

それでも「決断しない上司」がいたとするなら、今決めないことによってどのくらいの損失、金額的、時間的なものになるのかを示し、念押しをする。それで決めないならもうそれは「あなたの」「現場」の責任ではなく、判断をしない上層部、マネジメントの責任、では?

 

だが、ここまでしないといけないのかとよく聞かれる。でもそうしないと「付け込まれる」のだ。それは、

「…というまずい状況になりつつあります。なので、追加の費用を…」とか「追加の人員を…」といったところで、かならず上長はこういうだろう。「その根拠は?」「そうするとどうなるのか?」「確実に対応できるようになるのか?」

もちろん、神様ではないのだから「絶対」はあり得ない。だがそうして数字で示せていないと、「そんなあいまいな根拠では判断できん!」といって、判断する側、すなわち「上司の側」に、「決定しない言い訳」を与えてしまうことになっていないだろうか?

 

実は上司だって怖いのだ。判断するに足る根拠が欲しい。だがまずそんなものはそろっていない。間違った判断をするわけにはいかない(下手をするとクビがかかっている)。であるからこそ、「〇〇の情報はどうなっているのか」とか「こんなデータを作れ」などと状況分析に必要な情報を現場に指示を出す。それをあらかじめ準備し、持って行っていれば、あとはそれをどのように判断し決断するかの「上司の責務」だ。それを準備できていないばっかりに、「現場のリーダー」が怒鳴られたり、怒られたり。

 

だから、現場リーダーが責任を背負い込みすぎないためにも、見える化なのだ。そして判断を素早く上司にゆだねること。

 

 

もちろん、それでも判断しない上司は存在する。それは別の話だ。

自分を正しく知ること

証券会社などにおいて、営業マンの営業トークの一つとして、「ほら、皆さんの平均値はこうです。あなたはどのあたりですか?」と示したうえで、営業を始める。これ、ある意味で、こうした金融商品においては常套手段ではないですか。

 

「平均値」は、真に母集団が均一に散らばっている場合においては、重要な意味を持つ。しかし母集団内において散らばりに大きな偏りがある場合には、その平均値が示している値のみを頼りにしていては大きな誤解を生じることがある。

 

たとえば、とある学校のクラスのテストの点数状況で考えてみる。
a) 10人のクラスメートの内、20点が1人、30点が2人、50点が4人、80点が2人、90点が1人なら、平均点50点。このクラスの平均的状況を表していると考えてもよいだろう。

だが、
b) 100点が2人、20点が3人、10点が5人で、平均点31点ととらえるのは良いのだろうか?半数以上が平均点以下のこのような状況においては、平均値は何を示しているのか、平均点の意味がわからなくなる。

 

そんなときに使われる指標が中央値だ。中央値とは、その母集団のデータ個数としての真中の数字。10個の場合は、5個目と6個目の数字の平均値を取ったりする。
とすると、a)の場合の中央値は、下から5番目と6番目のクラスメートの点数平均なので、50点。これは平均値と一致する。

だが、b)の場合の中央値は、下から5番目が10点、6番目が20点だから中央値は15点だ。平均値の31点とは2倍以上の乖離がある。中央値と平均値。b)のケースでは、どちらがクラス状況の雰囲気を表すのに適切か。クラスの点数状況を捉える意味のある数字はそれらを勘案して選択すべきでは?

であるから最近の統計値の発表において、平均値だけではなく、中央値も出ていることが多い。

 

だが、これとて「中央値」だ。「私」の生活は中央値だったり、平均値だったりするのだろうか?そもそも人は人、自分は自分ではないか。昔の日本のように、「総中流社会」ではないことは明白な事実。であるなら、「自分」を知って、それに対して「自分」で自分の未来を計画していくしかないわけだ。
とは言え、まったくのゼロから情報を組み立てるのはむつかしい。そんなときに、中央値や平均値を「参考にして」、だからこのくらいでやっていくとか、このくらいを目指すという「指標」にせざるを得ないという事。だれもが平均値の値で、中央値の値で、生活しているわけではないのだから。

 

世間の健康指数として、コレステロールの世代平均値が上がっているからと言って、明らかにやせ気味の人が食事制限をしたりするだろうか?それはあなたがやるべきではない、と誰もが一目見ればわかる事。今回の2000万円騒動とはそういうことではないのか。

 

平均の数値に踊らされる事なかれ。「自分」の数字を知ろう。そして自分の行動を決めよう。

 

 



平均だけを知ることは、一つの目安ではあるけれど、あまり重要性は高くないのでは。

 

任せる側の意識

ここ何年かの「働き方改革」にはじまるずっと以前から、日本においては、「労働者側」の意識改革が行われ。まぁありていに言えば、「もっと効率よく働け」に集約されているものがほとんど。

 

だが、働く側、労働者サイドのみならず、実は本当に効果が上がるのは「働かせる側」「資本家サイド」の意識が変わる事こそが、今の日本において真に求められていることではないのだろうか?

 

資本家サイド…いわゆる会社のトップのみならず、管理職、リーダーサイド、マネジメントサイドの意識が大きく変われば、当然ながらそれにしたがって働く側の働き方は変わらざるを得ない。だがその意識と覚悟ははあるのか?
もしもその意識も覚悟もないとするならば、「働かせる側は今までの意識通りなのだけれど、働く側は、よりがんばってねぇ」という、なんとも都合のいい改革にはなっていないだろうか。

 

 

一部の賢者の組織以外は、これまではそうして労働者側ばかりにしわ寄せがきていた組織ばかりだった時代だ。だがすでに変化の予兆は見えてきている。もう労働者サイドばかりがしわ寄せを食らう時代ではなくなりつつある。そんな押し付けをされるなら、「じゃ、辞める」という人々が増え始めている。そう、以前は終身雇用制もほぼ機能しており、であるがゆえに労働者の市場流動性が低かったからゆえのしわ寄せだった。ところが、もう事実上終身雇用など崩壊し、労働者人口も減り始め、各社の雇用がひっ迫し始めている中、次の就職先も以前に比べ見つかりやすくなっており、辞めやすい時代に。であるため、そんな「労働者への対価が不当である職場」は、あきらかに嫌われ始めている。昔なら、すぐやめる若手などに向かって「若い者は辛抱が足りん」などと文句を言っていた人もいただろうが、いや、それは裏返せば、あんたがほかに転職できるほどに研鑽してこなかった事実の裏返しでしかないのではないだろうか。

 

任せる側の意識改革、マネジメント意識改革が始まりつつある。これに乗り遅れると、明らかに企業が崩壊し始めるのだろう。正しく見えざる手が動き出してくれることを期待する。

「決める」癖

人生はすべて「決断」でできている。

勉強しよう。数学をするのか、英語をするのか?

ご飯を食べよう。てんぷらを食べるのか、生姜焼きを食べるのか。

休憩しよう。お茶を飲むのか、コーヒーを飲むのか。

いやそもそも、もうあと少しでできるから、もう少し頑張ろう。

 

決めないことで、「どうする?」というグダグダの時間になっていたところが、たぶん、決めて実行することにかかる時間以上の時間がかかっていないだろうか。あぁここ汚れてるな…と思った場所を、この後、何度見るだろう、訪れるだろう。1回10秒の不快な、あぁ「掃除しなきゃ」と思ったけれど、「後回し」にすることで、これから何十回と見続けることに。結果、未来においての2分、3分の不快な時間が生まれる原因を放っておくことになる。
でも、ここで1分かけて掃除したら、めんどくさいけど、「今やる!」と決めてやること、今後不快な時間は生まれないことに。

 

自分で決めれば、自分でそれに向けて行動すれば、それがきっかけで動き出す。
何事につけ、決めなければ方向性が決まらない。決まらなければ動けない。
決めれば動かざるを得ない。動けば結果はついてくる。そして、あまり嬉しくない方向での結果が出たなら、是正のための行動をすることに決めるだけ。

計画がないから

今の年金問題の根本は、そもそもこの数十年、政権政党が、「こうなることがわかっていながらも、根本対策を打ってこなかった事」に相違ない。
…が、そんな過去のことをうだうだ文句を言っても今更時間を取り返せるものではない。

同時に、だから私たちの未来はない…だとか、老後破産に陥る…とか、これも十把一絡げにまとめるのもおかしいだろう。今、20代が、30代が、40代が、50代が言う心配は、それぞれに残り時間が違うのだから、当然違っているはずだ。

 

だとするなら、「自分の未来」がどうなるのか、どうなる可能性が高いのか、逆に、このままいってもここまでにはならないだろう…といった事は見えてくるはずだ。

それが「計画」。自分の未来を見据え、このまま放っておけばどうなるか、ちょっと工夫をするとどうなるか、頑張ればどうなるか、そうした事を見渡すスキル、それが「計画」だ。計画がなければ未来が見えない。行き着く先がわからないのは当たり前。どうなりそうか?の確度を上げるスキル。

 

だがこういうと、「そんな計画はむつかしい」という人がいる。が、それは違うはず。

あなたはちょっとしたことでもいい、「旅行」にいった事はないだろうか?身近な「お買い物」でもいい。となると、何時の電車に乗り、どこのお店にいつごろ付き、この店に入って、この店で料理を食べて…。このレベルの計画でも、それはそれで十分だ。それを、人生について、人生のスパンで考えるという事。

30歳でこのくらい、40歳でこのくらい、50歳でこのくらい貯めておくには。今の自分の資産はこれだから、とすると、ただ貯めるだけではこうなる。投資が成功すればこうなるなど、見える未来の確率が高まってくるはずだ。

 

やり方がわからない?それならプロに頼めばいい。結構な数の方が、なんらかの生命保険に入っているのではないだろうか?保険会社は「そうした未来の可能性」を検討し、それでは賄えない部分に対して「保険」というサービスをしてくれている会社だ。ここを使わない手はない。

 

計画を立てよう。人生の。