社会としてのリスクのしわ寄せ

小さい子供が体調を崩したら、代わりに面倒を見られるか、仕事を抜けずに済ませるか?

 

そもそも面接時にそんなことを聞くということ自体が、その会社のスタンスを表しているといってもいいだろう。それほどに「その会社はギリギリで回さなければならないほどに追い詰められている会社」という事でもあり、であるがゆえに、「その会社の社員も、追い詰められざるを得ない状況にあるという事」を、質問すること自体が語っているに過ぎないのではないか。

 

そういう意味では、経済が、社会が、「子供に起因するリスクを、受け止めきれない」と言っている。個人努力ではもはや限界なのは見えている。だからこそ、「保育園落ちた、日本死ね」などというつぶやきが当たり前のようにネットを飛び交う。言いたくもなるだろう。こんなに「個人レベルではもう戦えない、対処方法がない社会」であるにもかかわらず、他方で「子供を増やさねば、人口を増やさねば」などと言っている。ちゃんちゃらおかしい。ダブルスタンダードも甚だしいではないか。

 

もちろん、個人で甘えている奴らもいるのだろう。だが、多くは対処できず、自分で面倒を見ざるを得ず、一部の仕事に制限が出てしまう。がゆえに、それを突かれて安く働かされる状況に陥っている事も。
それに甘えているのはだれなのか?その起業か?業界か?自治体か?国か?

すでに一部では考え始められているとも聞くけれど、明らかに資本主義社会のほころびが見えてきている気がする。この仕組みではまともに回らなくなってきており、弱い者へのしわ寄せが甚だしい。我々全体がよりよい形でより多くの幸せを手に入れられるためにはどうするべきなのか、どんな形にすべきなのか?意欲をそがず、かといって発展していける新たな仕組みを。

もうこう感じ出して、10年は経ってるんだよなぁ。

 

非合理的な僕ら

常に合理的に判断して、一番いい手、一番いい対応を取ろうと努力したところで、所詮は大した判断ができていない、それが多分僕ら。

 

その一つの理由が、常に「不完全情報下」にあるという事。見えている、知っている情報は、所詮不完全だ。その中において判断するのが常であるため、その情報の外側に重要なカギとなる情報があったとしても、判断の対象とならない。

 

たとえ「完全情報下」にあったとしても、すべての未来が見渡せているとは限らない。さらに言えば、未来には不確実性(そう、これをリスクと呼ぶ)が待っている。そうしたリスクを加味したうえで判断が下せているか。
リスクは確率論だ。であるからこそ、数学的に計算としての答えを得ることは可能だ。にもかかわらず「…でも…やっぱり」という欲や目の前の何かに左右されるのが人間。

 

…といったすべてのめんどくさい事は横に置いておいて、直感で勝負する…という人もいる。いや、それがその人のスタンスならもちろんどうぞ。

 

こんな人間の特性をどのように表すか、その指先一つ、行動の変容の表し方ひとつ、パラメーターひとつで、それによってシミュレートされた結果は大きく変わりうる。もちろん、過去の事例に当てはめて、それらしい可能性の高い結果を導き出しているのだろうけれど、所詮「パラメーター化できていない要因」は必ず存在するものだ。
そんな「非合理的判断をする僕ら」の行動の多くが、予想の範囲に収めることができる結果として導けるのだから、確率論の学問としてのパワフルさ、恐ろしさと言ってもいいかもしれないものを感じざるを得ない。

そのくらい未来は見通せる、と思えるのか、いやそうは言っても何があるかはわからない、となりゆきに任せるのか。あなたのスタンスは?

 

解答への道

日本の(特に)義務教育は、解答を覚える事が多かった。であるからこその「詰め込み」などと揶揄される教育方法が、たびたび問題になってきた。

たとえ数学であったとしても、その方程式を解く「一般的な方法」を覚えるというよりも、その操作方法を学んでいさえいれば、解ける問題が多かった。

 

だが、そうした「操作」は、早晩AIに追い越されることが見えている。逆にAIでは解けない問題は何かというと、そこから問を読み解き、問によって構築すべき方程式を組み上げることが求められ始めている。

さらにAI続きで言えば、何を問いとするかはまだまだ人間の方が勝っているのではないか。なぜならば、何に困っているのか、どう困っているのかは、困っている当人でしかわからない。人間でしかわからないからだ。
逆に、AIとして困っていることを解決するのはAIにはわかりやすいだろう。であるがゆえに、AIが解決していく社会の考え方に偏りが生じるとするなら、よりAIにとって住みやすい、逆に場合によっては人間にとって住みにくい世界に変わっていくかもしれない。そのようなデストピアの世界は、すでにSFの世界にはたくさん描かれているのだが。

 

となれば、結果的にAIなどにとってかわられにくい部分こそが人間としての力の発揮のしどころ。だがそれは「考え方」や「発想」の部分に近づくことになり、特に旧来の「暗記もの」の試験では評価でき辛くなりつつある。そう、「試験の採点に時間と金が必要になる」という事だ。
効率化が叫ばれている中で、試験の採点をいかに効率化するか…というところで金をかけなければ、将来役に立つ人間が作れなくなるという事。いや、こここそ「効率化」で評価してはいけないところなのではないか。教育というのは時にこういうことがあるからこそ、「効率化のみ」の視点では決して良い方向に進まないというのはよく知られていることだ。

全てを効率化するというのなら、規格化された人間を作り、事実上のロボットを作ればいい。言われたコマンドに従い、希望するアウトプットを出す。ただ、それで「人が生きる意味」を創造できる世界になるのか、そもそもそうした世界が幸せなのか、言われたアウトプットだけを期待しているのか。ずっと昔からSFが描いてくれている。

日本の変化

いくつかのBlogの記事でこうしたものを見かけた。

 

事務所に新たに派遣社員さんが入った。Excel等を使いこなすすべにたけており、既存のファイルをしっかりと分析したうえで、マクロを駆使して、作業の効率を測った。いわば作業効率を向上させたわけだ。結果どうなったのか?その人は止めさせられる羽目になるらしい。理由はこうだ「ズルい」。

 

信じがたいがそのような事務所、会社が現存するのが日本。この社会に、オフィスに、どうやって「効率化を望もう」というのだろうか?
マクロを書いたり、作業効率化をすることが望まれている昨今、信じられない行動だ。たぶん、「一人の誰かがそうして効率よく作業をすることで、他のみんなの作業効率が低いことがばれてしまう」とか「私たちが日々、非効率に仕事をしていることで食い扶持を稼いでいるのに、それが稼げなくなる」という事かもしれない。要するに、『本質的に効率化したくない人々が少なからず存在する』という事であり、『効率化を主眼とした作業評価軸がない』という事も言えるのかもしれない。

 

こんな企業を生き延びさせる意味があるのか?保護費用を使ってまで延命させる意味が分からない。要するにすでに大人になった今現在、今より学習したり、新たなことを学んだりすることをしたくない人々が、かなりの数存在し、そうした人々に「よりそう」からこその、非効率な社会が温存されているという事だろう。

 

非効率でも未来永劫生き延びられるのならそれも一つの選択肢だ。が、それでは国家間の経済競争に負けそうな事実が突きつけられている。
すでに日本は貧しい国への道を一直線に転げ落ちている時代。工業大国?アウトソースする方が安い?すでに中国で作るより、日本で作る方が安いものがある事実に目を向けた方がいい。技術的要因ではなく、コスト的要因として、日本人が「安くなっている」、言い換えれば世界の中において相対的に「貧しくなっている」のだ。今まで通りで見ないふりをして逃げ切れるのは、ごく少数の人たちだけだろう。痛みを伴う変化をのちに先送りするほど、「痛みの大きさ」は増すのは想像に難くない。

そりの合わない奴とは

弁天様のような人でもない限り、万人に笑顔を振りまけるわけはない。自分とそりの合わない奴、馬が合わない奴は必ずいる。こうした人々とどう付き合うのか、永遠の課題かもしれないけれど、結果的に人はずっとこれと対峙しているのではないだろうか。

 

大きなところでは、国と国との闘いがこれだろう。お互いにその国を引っ張る為政者の思いのそりが合わないため、けんかになる。もちろんそれぞれに国民性、考え方はあるだろうけれど、こうした違いをどのようにとらえるか、捉え方の違いがある場合は、(武力以外では)話し合いしか解決方法はないだろう。
個々の国民間においては、それぞれに仲良くやっていたとしても、マクロにとらえると納得できない。

こうしたことをチマチマとやって事実を積み上げているのは中国。いいやり方とは思わないが、ちょっとだけと言いながらもずっと思い通りを押し切り続ける。まぁ戦略の一つとしか言いようがないか。

 

実害がないうちは、無視し続けるのも一つだが、これも完全に黙っているとそんな立場になりうることもある。我々は絶対位置を持っているわけではなく、仲間の中の位置づけとしては、自分の正しさをきちんと確保しながら動かなければならない。そのためのアピール行動が必要になる。これは、その「そりの合わない奴」に向ける必要はなく、それ以外の人に向けてのアピールだ。

 

となれば、a) 自分がいたうえで、b) そりの合わない相手との対峙の仕方、さらc) に第三者へのアピールの仕方が重要だということになる。となると、a)b)c)のそれぞれについての施策は当然つながっているわけで、一つだけを議論していてはらちが明かない。

本質的にやるかどうかは別にして、a)における憲法改正とか、b)における対話や公式発表、c)における対外アピール、多言語での情報発信等々。で、どれを推し進めるのか?実行していくのか?がポイント。ずっとやってきたけれど、効果がないなら、別の手しか存在しない。