前例がない、の根っこ

「こうしたいんですが、承認願えますか?」

こう、上司に持っていくと、こういう答えが返ってくることがある。

「いやぁ、前例がないしなぁ」

 

この言葉を聞くとうんざりするわけで。私はもっぱら「分かりました」と、「そこから」そそくさと退散する。
その承認者は、「承認者としての責任」をとる気がない、取るための確認などしたくない…と言っているに等しいからだ。

 

「前例がない」は、「どこかの誰かが前例を作らなけれ」ば、ブレークスルーしない。そして、ブレークした場合、それによる不具合、不利益、不都合が起きたら、その人が責務を負うというのが原則になっているのが通常だからだ。

そして通常、「承認者」や「上司」は、そういう責務を負うがゆえに高いポジションが与えられ、その責務に応じた対価を得ている。が、「前例がない」と言い切るそれらの人々は、それをする気はないという事であり、危険を犯さず大きな対価を得たい物たちだろう。

 

もしも「いやそうではないのだが…」と言い訳するのであるならば、「前例がない以外の理由」をきちんと説明しなければならない。が、それまたたぶんその者たちにとっては、難しかったり、めんどくさいわけだ。だが「それが彼らの仕事」であり、それはやりたくない奴ら。であるがゆえに、結局現場としては、つまらない作業が、つまらない量だけ戻ってくる、モチベーションを下げるという落ちになる。そもそもモチベーションを維持する、上げるのも、そうした上司の責務の一つであるはずなのだが、それすら下げがちになっているという事実。

 

…であるからこそ、今の現場の「上司の役目をはたしていない奴ら」は一掃したほうがいい。えっ?結構いい歳なので、今頃放り出されても路頭に迷う?いや、今までのそのポジションが間違いだったのでしょう?いい思いしすぎじゃないでしょうか?逃げきれると思ってるの?

 

(難しい事の)伝え方

小難しい内容を分かりやすく伝えるには、その「根幹」をきちんと理解し、そこをずらさずに伝える必要がある。そのためには、深い理解(これこそが根幹を理解している、という事なのだけれど)が必須になる。

 

見かけ上、言葉上、とても分かっている人と「まったく同じ言葉で説明する事」はできる。一言一句たがわずに、それこそ口伝で覚えこめばよいだけの話だ。が、実際にやってみると分かる。そうして、言葉で伝えるだけなのだけれど、明らかに「自信」に違いが生じてしまう。そう、言葉だけではなく、語気、立ち居振る舞い、声の大きさなど、全てにおける違いを持っての違いなのだ。

さらに、口伝で生半可に理解している際には、ちょっとした質問や突込みに対して、それこそ「不快レベルで正しく理解されていないことにより」正しく論理だてた細部の整合性がとれた返答ができない場合が少なくない。これでどうしても「あぁ、こやつはあまり深くは理解していないぞ」と勘繰られてしまう。人はそうした細かな違い、雰囲気、動作、しぐさには敏感だ(逆に言えば、そうしたしぐさや動作さえも習得すれば、そこそこ行けるとも言えるかもしれない)。

 

とすると、伝えているのは一つではないということ。それは「その内容」であり「言葉としての伝え方」であり「態度としての伝え方」だろう。であるがゆえに、習得がむつかしい。それぞれをある一定以上のレベルに持っていけて初めて、「伝えられる」ということ。

さらにさらにむつかしいことに、上記で「伝えられる」と書いていることでお分かりの通り、相手に「伝わる」ということと「伝えられる」という事の間にも、当然ながら隔たりがあるという事。そう、相手の思い、態度、気分にも左右される。伝える側のたけている人は、そうした相手側さえも「伝わりやすい形に持っていく」術を講じながら「伝えている」ということ。

やはり「伝える」それも「うまく伝える」というのは、かなり「スキルレベルの高い技術」だという事。「自分が何を認識しているか」を認識してますか?ってことかな。

 

まず動け、を都合よく捉えない事

世の中、動きが早くて、仕事でもプライベートでも、じっくり考えて動いているようでは、どんどんと置いて行かれるような焦りを感じている人がいる。そうした人たちがよく言うのは、「考えて行動できないようじゃいかん!まず動きなさい!」

 

もちろん、動き出すことは重要だ。じっとしていても何も始まらないのはよくわかる。で、伺いたい。まず動くって、どこに向かって、何をしようと動くのか?そんな何も考えずにソワソワと、エーっとエーっと…と動くことを期待している…のではないですよね?となるとそれなりに、何のためにとか、どの方向にとか、どうやって…とかとかそういった事は「事前に考えている」というのが大前提でしょ?そう、「そこを考えた上で、動きなさい」ですよ。

 

まったく何も考えずに動き出すことは、現実、無理!逆に考えに考えて、すべての手順が全部見通せるまで考え込んでいるようじゃ、いつまでたっても動けない。だから、方向性を決め、概要レベルで考えたら、そこからは「詳細を考えながら行動しなさい」ということ。
だから勘違いしてはいけない。「全く何も考えずに動け!」ではない。そして同時に「全てを考え抜いてから動け!」でもない。ある意味、そのバランスをもって考えなさい、考え過ぎずに動き出しなさいということが求められていること。
都合の良いように、何も考えないとか、じっくり考えすぎるということにしない事こそが重要。
世の中、バランスなのである。

その現場の真実

雇用が逼迫している現場全てではないにせよ、結構多くの場所で作業効率が低い現場となっていて、なんとか人力で対処しなければならない。往往にしてそのような職場は、給与が低めな場合を見た。

 

変わって、効率性の高い職場で雇用が逼迫しているところは、相当急激に事業が拡大している場合。業務がそうそう拡大していなければ、そういう職場はそもそも事業効率が相当いいので、追加雇用がさほど逼迫しない。と言うか、逼迫する前から段階を追って、対策が進められている。

 

上記の二つを同時に論じるからこそ、おかしな誤解が生まれる。人をより優先的に配置すべきは、後者の職場だろう。日本において、「何とか生き延びさせる」ために、いかに効率の悪い、無駄な職場がのさばり続けているか。ゾンビのような無駄職場が大量にある事こそが、日本の生産性を下げているといっても過言ではない。
であるからこそ、「生産性の上げられない職場」は「消え去るべき」、端的には「つぶれるべき」なのだ。正しい経済原理で淘汰されない事こそが日本経済の停滞の一つの要因。

…と、こういうと、結構なベテラン組から「俺たちはそうそう変われないよ」などと弱音を聞くことがある。そう、その「弱音を吐くあなた」こそが大きな原因の一つ。あなたが効率化できないなら、変われないなら、もう退場を願いたいという「経済的帰結」が求められているという事だ。そんな既存のゾンビ管理職が、若手を使い古し、搾りつくして潰してしまっては、国の行く末は見えない。打ち倒すべきは、学ばない、変われない、変わろうとしない、非効率な世代ですよ。適者生存の世の中において、あなたは適応出来ていない、既得権をかさにきて搾取側になっていると言う事なのですから。

やりたい事と節約

結構ご高齢の方のご家庭でのIT環境、パソコン環境を伺うことがある。そういう人たちの中にある要望で、「バックアップは確実に、データを失いたくない」という恐怖心があるようだ。なのだが同時に「でも、電気代は節約したい。」なんてことが。
新しいものは使いたい。でも失敗はしたくない、無駄もしたくない。この感覚はわからなくはない。だが初心者の際にはどうしても無駄が出るし、失敗はある。…がそれはできるだけしたくないということ。その許容範囲が限りなくゼロに近い。

 

その感覚はわからなくはない。だが、「自分がよくわからない部分」であればあるほど、なにか無駄にお金をかけているのではないか、絶対に無駄はかけたくない…といった思いが強く出るようで、必要最低限の費用すらケチろうとする人々を多く見る。

そうした人々の一つの傾向として、自分が「わかる部分での無駄」はとても気にするのだ。が、「自分がわからない部分の無駄」は全く頓着しない。だから納得して受け入れられる部分と、誤解をしていてかたくなに受け入れられない部分とが、それはもう人それぞれにおいてまだら模様。まぁだいたいにしてそれが素人なのだが、だからこそ有識者の、良く知っている人のアドバイスに従っていただきたいのだが、そういう方に限って意固地になったりする。(まぁそうした無知に漬け込んで、金銭を掠め取られる事象も多いという事も確かで…)

 

やりたい事と、別のやりたい事が、実は背反していることを知らない、理解できない人は結構多い。それを、詳しくわかっているほかの人から説明されても、「そこを何とかならないか」と、(互いに背反する)わけのわからないリクエスト…というか、お願いをされる。論理的に説明しても、「それはわからない」と言い、「でも何とかならないか」と無理を通そうとする人においては、もうどうしようもない。

要するに自分では考えられない、でも助けてほしい。こんな時の、お願いをする側の当人が「専門知識」とさえ思えていない情報には、多くの人々が対価を払わない、払いたくない状況が生まれ、結果的に負担をかけ、搾取しかねない。ある程度は善意で無償では受けるものの、ある程度以上の手間がかかる事はやっていられない。勉強している人、学んでいる人だけが無償の苦労をするのみで、極論すればバカを見ることに。

 

いや、手助けをしたくないわけじゃない。だが、そんな考えない人、考えられない人が多すぎて、あまりに大量に対処しなければならない側、勉強した側は、かなりの時間やコストなどのリソースをその無償の善意に割かれることになる。お願いする側一人一人は「自分だけ」の目の前のことで小さなことでも、それが大量になると「コスト」になる。これを払わない人たちのなんと多い事か。

 

暴論かもしれない。だが、すでに日本人は(一部の学習者を除いて)すでに勤勉ではないのだ!その学んでいない分は、コストを支払わないと得られないものではないだろうか?それをもう少し理解すべきではないのか?当然ながら学ばなければ成長せず、成長できなければ落ちぶれるのみ。「結果としての」格差がつくのは当たり前のはずなのだが。教える側も、教わる側も、謙虚さが足りなくはないか?

なぜ、「機会としての平等」ではなく、努力するものもしないものもいる中で「結果としての平等」を標榜するのだろうか。足の引っ張り合いではないのかと。