議論が嫌いな人

違う意見を持つ人々がいるのは当然だ。であるからこそ、何が違うのか、どこが違うのか、違いの大きさはどれくらいなのか、折り合えるところは無いのか、実は違う視点で見ていることで両者ともにWin-Winの解決策があったりしないのか?こうしたことを明らかにするからこその議論であり、それをするための道具が「議論」のはずだ。

 

なのに、「議論すること」を嫌う人がいる。
一つは、「議論下手」なのかもしれない。言いくるめられるのが恐ろしいのかもしれない。いや、本当に確固とした信念でそれを考えているのであるなら、言いくるめられたりしないはずなのだ。だがそれを怖がる。そう、自分の未熟さを暴かれたり、今までとは違う意見になびかされたりする「自分の変化」を嫌っているからだろう。
「議論すること」で明らかに負けが見えている人もいるかもしれない。そういう人は議論をしたがらない。やれば負けが見えている事には参加しない。一つのスタンスではあるけれど、社会構築、運営においては、それは滞留を生み、不満を貯めるだけ、社会効率を下げるだけだ。
価値観が違うからそもそもやったところで意味がない…という人もいる。だが「その価値観の違いでの歩み寄りができないか」を探るツールが議論のはずが、それを拒むとまったく進歩の余地がない。そう、もう考え方が止まっているといったほうがいい。

 

好むと好まざるとにかかわらず、自分たちの身の回りの都合の悪いことから逃れようとすると、議論を避けようとしたり、逆に強権を発動して強硬策に出ようとしたりする。だが、たいていどちらもあまり成功しない。見かけ上成功したとしても長続きしないことが少なくない。
そんな中で生まれてきた手法が、民主主義であり、そのツールの一つが議論すること。徹底的に議論を尽くし、お互いに痛み分けをすること、場合によっては歩み寄りをすることで、一歩前へと前進する。それなくして前進はない。